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平田一式飾りの起源

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― 信仰の心から生まれ、町の文化として受け継がれてきた民俗芸術 ―

平田一式飾りの起源は、平田寺町町内に保管されている『一式飾り史要』によって伝えられています。


この文書は、昭和4年(1929)に寺町町内の遠藤義一郎氏が、古老からの聞き取りや、神社・寺への聞き書きなどをもとにまとめたものです。遠藤氏は、一式飾りに関する伝承が、それまで口伝えやわずかな記録にとどまっていたため、このままでは将来途絶えてしまうことを危惧し、記録として書き残しました。こうして『一式飾り史要』は、平田一式飾りの由来を今に伝える大切な資料となっています。

『一式飾り史要』によれば、一式飾りの始まりは寛政5年(1793)にさかのぼります。
その創始者とされるのが、平田寺町に住んでいた表具師、桔梗屋重兵衛です。重兵衛は、常に神仏を深く敬う信仰心の厚い人物であったと伝えられています。

当時、平田天満宮の天神祭では、「おたび」と呼ばれる神幸祭が行われていました。
「おたび」とは、神輿が本宮を出て町々を巡り、御旅所や町内の宿で休まれる祭礼のことで、地域の人々にとって神を身近にお迎えする大切な機会でした。しかしその頃のおたびは、悪疫が起こった年に限って行われていたとされ、寺町はその巡行路にも入っていませんでした。

重兵衛は、このおたびを悪疫の有無にかかわらず毎年の祭礼として行ってほしいこと、さらに寺町にも神輿を迎えたいことを願い、三年にわたって祈り続けたと伝えられています。そして寛政5年の天神祭当日、ついにその願いが叶い、神輿が寺町にも立ち寄ることになりました。

願いがかなったことを喜んだ重兵衛は、まず獅子舞をもって神輿を迎え、さらに町内で神輿が御休憩する際、茶道具一式だけを用いて大黒天の立像を作り、神をもてなしました。
茶臼を米俵に見立て、その上に大黒天を表したこの飾りこそが、一式飾りの起こりであると『一式飾り史要』は記しています。つまり平田一式飾りは、単なる趣向や遊びから始まったのではなく、神を迎え、神を慰めるための奉納の心から生まれたものでした。

その後、一式飾りは寺町だけのものではなく、平田の町々へと広がっていきました。
平田では、平田天満宮の神幸祭「おたび」にあわせて、各町内が生活道具一式を用いて作品を作り、祭神に奉納する習俗が受け継がれてきました。高橋健司教授は、この習俗が地域の人々の信仰によって支えられながら、代々継承されてきたと述べています。

また、平田は江戸時代、水上交通と木綿取引によって栄えた町であり、上方文化の影響も受けていました。高橋教授は、そのような町の文化的背景の中で、祭りを彩る「造り物」の文化が平田にも根づき、一式飾りが発展していった可能性を指摘しています。つまり平田一式飾りは、信仰を起点としながら、商いで栄えた町の文化の中で育まれた民俗芸術でもあるのです。

さらに近代に入ると、「平田一式飾り」の中興の祖として知られる千把雲陽が現れます。千把雲陽は、従来の茶器や陶器に加えて学用品や自転車部品など新たな材料も取り入れ、より大きく、動きのある作品表現を切り開きました。こうした創意工夫によって、平田一式飾りはさらに独自の発展を遂げ、現在につながる表現の基礎が築かれました。

平田一式飾りの魅力は、単に形を巧みに作ることにあるのではありません。
身近な道具を別のものに見立てる「見立て」の妙、限られた材料の中で工夫を凝らす遊び心、そして神を迎え、神を慰める信仰の心が重なり合って、この文化は成り立っています。高橋教授は、その本質を「見立て」の趣向や「神遊び」の精神として捉えています。

このように平田一式飾りは、寛政5年、桔梗屋重兵衛の信仰心から生まれ、町の人々の創意と工夫によって磨かれながら、二百年以上にわたり受け継がれてきました。
それは、神事とともに生き、暮らしの道具を通して豊かな想像力を表現してきた、平田ならではのかけがえのない民俗文化です。

※本ページの記述は、『一式飾り史要』および鳥取大学地域学部高橋健司教授の研究論文を参考にしています。

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